針井探偵事務所
安い事務机に向かって机の傷を眺めているとノックの音がした。
返事をする間もなくドアが開く。
「針井探偵事務所はここかしら」
「そうですが、あいにく」
手のひらと視線で私の言葉を遮って彼女は喋り続ける。
「針井探偵がいろいろ立て込んでいることは承知してますが、話だけでも聞いていただけませんでしょうか」
そう言うと勧められたわけでもないのに勝手に来客用の椅子に座り込む。言葉とは裏腹に自分の要求が通らない事など想定していない人種だ。服は高級品に見えないが着崩れてないことからみて、ここにくる直前に古着屋で購入したものだろう。何より靴が高級品のままだ。貧乏人の振りをして探偵に仕事を依頼しにくる上流階級のご婦人とはなあ。何を依頼するつもりなのか判らないが、これから喋ることのほとんどは信用できないと考えるべきだろう。どの言葉が本当で、どの言葉が嘘なのか、一つ一つ選り分けて判断しなければいけないじゃないか。めんどくさいなあ。頭の中に正直村の住民と嘘つき村の住民と嘘と本当のどちらを言うか決まっていない村の住民のクイズがよぎり、思わず呟く。
「この道が正しい道ですかと聞かれたらあなたはハイと答えますか?」
「え?今なんとおっしゃいましたか?」
婦人は青ざめている。
「いや、すいません。ただの独り言です」
「……さすが針井探偵、見事な洞察力です。私がここに来たのは、浮気性の夫を亡き者にする殺人計画の第一歩でした。私の決心は堅かった……はずでした。でもあなたの今の一言を聞いて自分の心に問うてみました。正しい道……ではありません。わかりました。もういちど夫と正面から向き合って話し合ってみます。ありがとうございました」
そう言うと私の返事を待たずに婦人は部屋から出ていってしまった。残された私は、あいかわらずやることもないので机の傷を眺める作業に戻ることにした。
来たと思ったらあっという間に帰って行ってしまったので、あの婦人にさよならを言う暇もなかったのだけはよかった。さよならを言うことは、少しずつ死ぬことだからだ。