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おそらくは半茶のblog

流行に乗り遅れてはいかん!とブログをはじめてみたおっさんです。

猫とともに去りぬ ロダーリ 光文社古典新訳文庫

イタリアの児童向けっぽいファンタシーていうか童話集。
表題作は家族に相手にされないのが嫌になった爺さんが猫になって広場にいると、まあ猫の半分は実は元人間。元天文学者の猫が猫たちに星座の説明をすると、猫たちは星座に猫座がないことに怒り出しストライキを始める。猫の座り込みに混乱するなか、孫が元爺さんを発見し、爺さんは人間に戻る話。
このファンタジーのテキストはテキストが本来持つ裏の意味とか背景とか歴史とかを全部は引き受けないで、ほとんどテキスト単独で立とうとしている。そこに大きな可能性があると言えるし、可能性が狭められているとも言えるが、実は両方とも同じ事である。
自由であることを標榜しているフリージャズが、ちょっと聞いただけでフリージャズと判ってしまうように、自由な発想であるはずのファンタシーは、ファンタシーの枠の中に囲われてしまうのは何故だろう。
古典ファンタジーがここまで到達しているからには、その遺産を引き継ぐ我々は、テキスト本来の意味でありつつ、そのテキストの歴史的意義や背景を同時に引き受けるという綱渡りしながらの重量挙げのようなことをやらなければいけない。そしてそれは同じように可能性を拡げる行為であると同時に可能性を狭める行為でもある。と、ファンタシーをほとんど読んだことが無い私が書いてみました。